1.誰のための字幕かの検討 1.1 はじめに |
邦画に字幕を付ける活動にとって、自分達が作成する字幕が主に誰のための字幕かを考えることは必要不可欠である。洋画の字幕スーパーは、洋画を見る健聴者のための字幕であり、当然物音や音楽は聞こえているという前提に立つ。従って、聴覚障害者のための字幕を同一に考えることはできない。更に、聴覚障害者と一口に言っても、実際には障害の程度、障害の発生時期等によりコミュニケーションの方法は様々であり、字幕を含めて映画という表現を受けとめる方法も障害者により異なる。 |
1.2 全員に満足してもらえる字幕は困難 |
字幕付きの邦画を上映する中でとってきたアンケートや邦画を見た難聴者から直接聞いた意見などを検討すると、相反した意見も多い。「要約して欲しい」という意見もあれば、逆に「要約しないでそのまま書いて欲しい」という意見もある。「物音の説明はいらない」という意見があるかと思うと「良く分かる」という意見もある。これは、結局、邦画を字幕と共に観る側の障害の程度やコミュニケーションの方法の相違によるところが大きいと考えられる。 大切なことは、これらの声のひとつひとつに耳傾けるという当たり前のことと共に、特定の意見に振り回されることなく、自分達の当面の対象者をしっかりと押さえるということだと思う。私達「まごのて」の場合は、補聴器を使ってもほとんど聞こえない中途失聴者という存在を離れることができない。従って、補聴器を使う難聴者から「もっと要約して」という声を聞いても、それだけで要約するという立場を採ることはない。 |
1.3 情報保障の意味 |
邦画に字幕を付ける活動には、情報を保障するという側面がある。娯楽作品が中心とはいえ、「邦画」という情報は長く聴覚障害者にとって存在しないも同然だったといえる.従って、邦画に字幕を付けることは、その字幕の完成度によらず、情報保障の意味で大きな意義を持つ。更に、一般映画館で健聴者とにも字幕付き邦画を観るという状況は、情報保障の意味を広く社会に知らせるという点で、ビデオに字幕を入れる活動などとは違った意味があるといえる。 一般的にいえば以上の通りであるが、実際にはどのような情報を保障するのかという問題がある。名古屋の場合、映画が始まる前の予告編や市政ニュースにも最近では字幕を付けており、「映画の前に何をやっているのかいままでもボンヤリとは理解してはいたが、初めて『なるほど』と分かった」といった意見もあり好評である。広い意味での情報保障と考えている。 |
1.4 字幕で楽しむ |
どのような情報を保障するかという点にも関係があるが、映画の多くが娯楽作品である以上、字幕によって邦画を楽しめる必要がある。洋画のスーパーの場合、直訳したのでは分からない冗談やシャレは、日本人に分かるよう意訳を行なっており、私達を楽しませてくれる。 しかし、この問題は著作権に直接関係することであり、原則として安易な要約・言い換えは許されないと考えられる。これは、点訳の場合でも同様で、単純に聴覚障害者のための映画の複製を著作権の及ばないものとする法改正がなされても残る問題であろう。大幅に要約した字幕を映画フィルムやビデオに直接付けるといった場合には、著作権を有する者(多くは、映画の配給元)の承諾が必要である。OHPによる字幕の場合にどの程度著作権が及ぶかは、はっきりしていない。 「まごのて」の場合は要約はしていないのでこの間題は生じないが、要約しないとせりふが早口の場合などには、字幕の量がかなり多く、読むのに気を取られて邦画を楽しむところまで行かないのではないかという心配は残っており、実際アンケートなどにそうした意見が寄せられることがある。邦画を観ている健聴者が笑い感動するときに、字幕も観ている聴障者もほぼ同時に笑い感動できる、というのが理想だろう。 |
1.5 字幕から学ぶ |
これも情報保障と深い関係があるが、字幕から学ぶという側面がある。名古屋の例でいうと、ほとんど全文字幕なので、「エート」とか「あのう」とかも総て字幕化されており、これを観た難聴者から「僕はいままで自分がついつい『あのう』と言ってしまうを気に病んでいたが、今日の字幕を観ていて健聴者でも同じようによく『あのう』等ということが分かりよかった。」といわれたことがある。また、「マルサの女2」のときは、「地上げとかが新聞によく出ていたが、この映画を観て初めてどういうことなのか感覚的に分かった。」という感想があった。これは、字幕から学んだというより映画から学んだのかも知れないが、字幕が付いていなければこの映画を観ることはおそらくなかった訳で、広い意味で字幕から学んだといえる。 |
1.6 字幕映画を理解する |
字幕が付けばそれで映画の内容が理解されるというものではない。例えば、映画における約束事の大部分は映画を見慣れた健聴者には当たり前でも、初めて映画を観る人には混乱を招く原因になることがある。映像が突然回想シーンに換わるところなど、多くの場合、一定の映像上の処理(例えば、ぼかしや色彩の変更など)が施してあるが、その約束事に慣れていなければ、時間の流れが前後するために分かりにくくなることは考えられる。聴覚障害者が洋画・邦画を問わず数多く映画を観るようになるまでは、ある程度の援助が必要ではないか。例えば、字幕の行頭に「−回想−」といった説明を加えるなどである。 |
2.読みやすい字幕を求めて 2.1 字幕に要求きれる基本的条件 |
字幕については、「入場料をとって見せる以上、妥協はだめ。一定以上の水準を」という考え方で色々取り組んできた。一般映画館での上映に先立って、自主上映の形で十数本の映画に字幕を付けたのも、一定の水準のものでなければ一般映画館で健聴者にも共に観てもらうことはできないと考えたからだ。どの方法が良いかを考えるうえで、聴覚障害者の意見を中心に検討することはいうまでもない。いくつかをピックアップしてみたい。 |
2.2 見やすい画面の色 |
映画のカラーは人間の目にとっての見やすさを考え、青色が強くかけてある。これに対して、OHPの画面は機種によるがどちらかという赤色が強い。従って、そのまま投影すると画面の色合いの違いがかなり目につく。そこで、OHPのステージガラス上にライトブルーのアクリル板を置き、映画の色合いとOHPのそれとをなるべく近付けている。 |
2.3 文字の大きさ |
文字の大きさは、シート上ではおよそ2cm角であるが、OHPの特性およびスクリーンへの投影の仰角がどうしても大きくなることから、そのままでは行の上の方ほど大きく下に行くにつれて小さくなるという現象が、かなり顕著に現われる。そこで、最近では、行の上の方の文字は小さく、下方はど大きく書くことにし、投影時の文字の大ききが揃うようにしている。なお、学研の出しているOHPのうち、モデル729は、上下の大きさが異ならないようある程度の補正を行なっており、字幕投影用に向いているといえる。 |
2.4 話し手の表し方 |
セリフを文字化する場合、そのセリフを話しているのが誰かをどこまで表示するかが問題となる。大部分は何の表示もなくても分かるのだが、三人以上の掛け合いのような場合、分からなくなってしまうことがある。音声を手掛かりにして判断できる洋画のスーパーと基本的に異なる邦画字幕独自の問題である。
当初、フルネームをセリフの前に付けたこともあるが、ただでさえ文字数の少ない字幕で名前に何文字も取られるのは結局情報量の低下になることから、発言者名の表記は止めることにした。その代わり、セリフの前に○をつけ、その中を、男のセリフなら青色で塗りつぶし、女のセリフなら赤色で塗りつぶし、映画が始まる前にOHPで案内することにした。他の地域では、主要な登場人物毎に略号を決めて表記している例も聞いている。まだまだ改善が必要な点である。 |
2.5 音楽の表現 |
音楽をどう表すかはいまだに試行錯誤を重ねている段階である。当初、単に音符記号のみ表記していたが、「音符だけではいかにも寂しい。健聴者が音楽で感動や悲しみを一層深く味わうように、私達にもそれを伝えて欲しい。」という声があり、音楽を字幕制作者が感じたままに表現することにした。従って、補聴器である程度聞こえる難聴者の感覚と合わないことも実際に生じている。しかし、感覚には万人共通の完全な物差しがなく、誰にとっても違和感のない表現を使うと表現が平坦になり、音楽を表現しようとしている意図から離れてしまうと考える。
字幕から学ぶ、という側面もあると考え、「音楽、震えるように短く鳴って」とか、「音楽、大地から沸き上がるように強く」とか、個性的な表現に努めたこともある。 |
2.6 物音の表現 |
当初は、物音もはとんど書いていたが、画面を観ていて分かる音や文字に書き表すと混乱しそうな背景の物音や会話は、次第に表記しない方向に変わってきている。映像を観ていても分からない物音とは、例えば背後で扉の開く音のようなものがある。
なお、物音を文字化するのは極めて大変な作業である。例えば、扉を手で叩く音は、通常「トントン」とか「コンコン」と表記されることが多いであろうが、実際はよく聞くと、「タンタン」とか「ティントオン」といった音に聞こえることが多い。こうした場合に、常識を優先させるべきか否か大変悩むところである。この点については課題は多い。 |
2.7 シートの送り方 |
洋画の字幕の場合、字幕は2行程度が一度に現われ約5秒で消えていく。全国多くの地域の邦画字幕もこれに習うようである。
しかし、健聴者の場合には外国語のセリフは聞こえているから字幕が一度に出ても言い淀みやまくしたてる感じは理解できるが、邦画字幕の場合も同じと考えて良いのだろうか。まごのての場合、邦画字幕をOHPによる要約筆記活動の延長に捉えいたこともあり、字幕を一度に出さず、シートをゆっくりと、時には速く移動してセリフに合わせて映しだすようにしている。また、聴覚障害者からの要望を開いてセリフよりわずかに先に映しだすように心掛けており、そのためにセリフとセリフとの間がかなり空くような場合、その間の時間を字幕の下端に小さく記入しておき、シートを動かす手掛かりにするという試みも行なっている。 |
2.8 よりよいスクリーン |
字幕を投影するスクリーンとしてどのようなものが望ましいかはある程度はっきりしてきた。映画スクリーンと別に設けることはできるだけ避け、できるだけ映画スクリーンの端の余白を使わせてもらうのが見やすい。映画の画面の両端はまっすぐでなくギザギザしている。これを隠すためにスクリーンの両側に黒い幕が配置されている。この黒い幕の一方を1メートル程度開いてもらい映画スクリーンと同じ平面に字幕を投影するのである。この場合、映画画面の端のギザギザを隠すために幅10センチ程度の黒い帯を垂らした。 このように字幕を映画と同じ平面のスクリーンに映しだすと、見る者は眼の焦点距離の調整を強いられることがないので極めて見やすい。別に配置された字幕用スクリーンでは、長時間にわたって映画と字幕との間で眼の焦点距離の調整を余儀なくされ疲れる。尚、映画用のスクリーンは前傾していないので、シート上の文字を上方で小さく下方で大きく書かなければならない。 |
3.今後の展望 3.1 どんなふうに取り組んでいくか |
邦画に字幕を付ける活動は情報保障の活動だと既に述べた。しかし、健聴者の側からは、そうした題目よりも手前に、「聴覚障害の友人と一緒に邦画を見たい」という気持ちがないと長続きしないように思う。不特定の聴覚障害者ではなく、特定のあの人、この人で良いのではないか。彼があるいは彼女が理解し、笑い、感動するためにどのような字幕が求められるのかを手掛かりに少しずつ改善していきたい。 その中で、映画のタイプによって字幕を変えるような試み、例えば、アニメーションのように話のすじを伝えることを重視するものではストーリーに関係ないものは省いて映像に集中できるような字幕とし、その場の雰囲気を伝えることを主眼とするいわば感情重視型の映画では、声の抑揚に含まれる感情を補う字幕とするなどの試みに取り組んでみたい。 |
3.2 その他 |
邦画に字幕を付けるのはその邦画を共に楽しみたいからだ。楽しむために必要な知識を予め提供する必要がある場合も考えられる。例えば「マルサの女2」では、宗教法人の税法上の優遇措置(具体的には、原則的に非課税)を知っていると、内容に関する理解が早いし深くなると思う。健聴者でも知らない人がいたかと思うが、聴覚障害者の場合、一般的に耳から入る情報は不足しているから、このあたりの知識を事前のチラシなどに載せて補えるような体制を採れたらもっと映画を楽しめるのではないかと思う。 以上 (1993年2月16日〜3月16日 日本映画字幕制作講座より抜粋) |